佐久地域の桃栽培

いま、新聞報道などでも「農業の6次産業化」という言葉を目にする機会が増えています。
明治30年代にすでに小諸の地では、この取り組みがはじまっています。

八月のおいしいこもろ イチオシ農産物「桃」の栽培と6次産業化の取組みをご紹介します。

【1】佐久地域での桃栽培のはじまり

佐久地域で本格的に桃栽培がはじまったのは、小諸市三岡地区(旧三岡村森山)といわれています。
明治29年(1896年) 「農村経済を豊かにする作物はないか」「貧しい農家の生活を少しでも楽にしよう」と考えた、塩川伊一郎氏の呼びかけに応じた7名の農家で栽培をスタートさせました。

浅間山の噴火によってできた軽石の大地は、水はけがよいため、桃栽培の適地でしたが、果樹栽培の先例もあまりなかったことから、手探りでの取組みでした。この間、小諸義塾を開いた木村熊二先生の助言や後押しがあったようです。。

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【大池農業委員会長の桃畑】

【2】販売先の広がり

「桃は3年で実をつける」と古くから言われていたことから、どこで売ればいいのか考えた末、
「そうだ!軽井沢には外国人の別荘があって、アメリカ人やイギリス人が来ている」からきっと売れると考えました。

当時1個 良いもので3銭、その他のもので2銭で売れました。
しかし、量はあまり売れませんでした。その理由は、明治33年当時の軽井沢は別荘数51軒、外国人用のホテルは万平ホテル1軒だけだったためです。
そこで、信州で一番大きな長野市にも持っていきましたが、1個2~3銭で買ってくれる人はいなかったようです。
さらに、木村熊二先生の助言で、東京での販売を行ったところ1個5銭で販売できました。
しかし、最初のうちは高値での取引でしたが、販売量が多くなると、「腐っているものがある」などというようになり、卸値を下げるようになりました。確かに、熟した桃は傷つきやすく、そこからくされが広がりやすい欠点がありますが、そこを商談の際にうまく利用されてしまったと悔しい想いをしたそうです。

【3】加工への挑戦

桃づくりに取り組んで5年
仲間を誘って植えた桃畑は、約20町歩(20ha)にも広がりました。収量も木の成長と共に年々増えていき、生食用の販売だけでは売れ残ってしまうことが目に見えてきました。
そこで、缶詰にしようということになり、明治34年 日本桃養合資会社を設立して、初年度桃缶1万3,000本、ジャム・ゼリー併せて3,000本余りを製造しました。
生果生産過剰の桃を缶詰にして売る方法が見事に成功し、北佐久の各町村に広がった桃栽培と桃の加工品の販売は、農家の副業として収入を増やしました。
会社の株式会社化と独立により、日本桃養株式会社と塩川缶詰合名会社は、小諸町や小県、岩村田などからの出資者と連携をしながら、佐久地域の経済発展に貢献したといいます。

(参考資料 小林収『浅間山麓の先覚者 塩川伊一郎評伝』有限会社龍鳳書房)

いちご、ブルーベリー、桃、プルーン、りんごなどおいしい果物がたくさん作られている小諸市。
市内には、高嶺商会(和田)や浅間農園(南町)など小ロットから果実を原料ジャム、ジュースなどの加工を受けていただける事業者の方もいますので、6次化を検討されている農家の皆さんは、出かけてみてください。

小諸市では、農家と地域の事業者の連携による6次産業化を応援します。
詳しくは、小諸市6次産業化推進会議事務局(小諸市農林課農業振興係)までお問い合わせください。