御影用水と未来を切り拓いた人たち


地域の地名をみると「〇〇新田」という名前を目にすることがあります。これは、以前に新田開発が行われた地であることを意味します。新田開発は一大事業ですから、幾多の困難があったことでしょう。今回はその一部を紹介したいと思います。

さて、小諸市周辺にも、御影新田、五郎兵衛新田、塩沢新田、八重原新田といったものがあります。
これらのいずれも、今から遡ること370年ほど前。慶安元年(1648年)前後に小諸藩によって行われたものなんです。
今回は、「御影新田」を取り上げたいと思います。
お米づくりには、水が欠かせませんよね。そのため、新田開発は用水路の整備からはじまります。
御影新田に水を供給している御影用水は、柏木小右衛門が慶安3年に開いたもので、水源は2か所あり、いずれも軽井沢にあります。一つは、小浅間と鼻曲峠の間から出るもので、千ヶ滝上堰(延長約20㎞)、もう一つは、里池からの湯川下堰(延長28㎞)です。この二つが、軽井沢、借宿、追分の区間は別々に流れ、合流して御影新田に水を届けています。
柏木小右衛門が水源を軽井沢に求めたのは、かつて、そこに用水があったからと言われています。どのようにして、そのことを伝え聞いたかは定かではありませんが、戦乱の中で廃村になった場所を通っていた用水は、おそらく原形をとどめていないことは想像に難くありません。

御影用水【自然の加温設備】

軽井沢からの水は冷たいので、水路を広くとって水深を浅くして、太陽の熱で水温を上げる工夫がされています。


dsc_5754%e5%be%a1%e5%bd%b1【御影新田と浅間山】

浅間山を北に臨む御影新田。毎年、稲穂が実ります。
写真提供:ヨシザワカメラのお客様・佐々木満喜信さん

困難を乗り越えて切り拓いた未来

この長い道のりを手作業で切り拓いていったことだけでもものすごいエネルギーだったと思いますが、さらなる困難がありました。
それは、軽井沢を通過するところで、水が伏流になってしまい、水路の地下に浸透してしまうという問題。つまり、せっかく開通した用水路ですが、御影まで水を届けることができない。
困り果てていたところ、柏木小右衛門の妻が「手桶の水がもれて困るときは、真綿をつめて使うから、そこへもそんなことでもしてみたら?」とアドバイスをしたそうです。私財をなげうって、水路の開拓に情熱を傾ける夫を応援する気持ちから出た言葉だったのか、妻の真意はわかりません。それを聞いた夫もなかばやけになっていたかもしれません。できることはなんでもやろうと。アドバイスを受けて、上流から真綿を流すと、水を含み土砂と絡まり合うことで地下浸透を抑えることができました。その結果、悲願の御影まで水を引くという人生を掛けた大事業を成し遂げたのです。

世の中では、お米をあまり食べなくなったといわれて久しいですが、私は毎日食べています。こうした先人の努力を知ると今日のごはんの見え方が変わってきませんか?


■参考文献

『小諸を読む』昭和47年11月/アース工房

いまでは、多くのことがWeb上で知ることができます。しかし、興味を持つことがなければ、地域の歴史は語り継がれないこともたくさんあります。幸運にも、このまちに関することは書籍などで残されていることも多いと感じます。この本もその一つ。